上松原町会概要

弘前市南東部の住宅街で1410世帯の町会

松原地区は江戸時代の羽州街道が参勤交代で利用されその街道には石川付近まで松が植えられていました。名残の松がよく残っていた地域なので松原と呼ばれていたことにちなんだ場所で、1945年ごろまではリンゴ畑と牧場がある広大な農地が広がっていました。 

世帯と人口

2270世帯 約4600人の人口で弘前市では317町会の中で一番世帯数の大きな町会。松原西と松原東と広野の3区域に分かれ、140の班で構成されている。

地 域

弘前市の南東部に位置し白神山地から流れる川が合流した大和沢川に沿って西から東になだらかな勾配がある扇状地(弘前台地)にある地区。以前は扇状地でリンゴが栽培されていましたが現在は住宅地になっている。

沿 革

昭和34年に弘前市連合町会が発足し松原町会から分離独立して上松原町会が発足した。その後町名改正で松原東と松原西になる。昭和50年に上松原中央集会所が完成した。

千年公民館の前に「千代の松原」の標柱と大きな松が茂っています。江戸時代参勤交代時、貞享元年(1684)に小栗山の松山を千年山と名付け、御仮屋長楽亭を建設し休息地としました。4代藩主信政公の時に、城下より小栗山を通って石川村へと至る羽州街道を造りました。この街道筋に松が植えられ、後にこれを千代の松原と称し親しまれていました。参勤交代の際には、ここまでは正式の列をなし、ここから先は旅行用に簡易化したとの話もあります。

上松原町会にある「千年駅」の駅名は地名である千年からきていますが住所は松原西にあります。1952年1月に弘前電気鉄道の津軽千年駅として開業しました。1986年4月千年駅に改称されています弘前電気鉄道は、大鰐から中央弘前間を運行されていましたが1970年に弘南鉄道に譲渡され、弘南鉄道大鰐線として現在は運営されています。沿線には多くの学校があり,利用者の促進のために弘前市も応援しています。

松原小学校は昭和23年堀越村立堀越小学校松原分校として発足し昭和30年の市町村合併により弘前市立松原小学校と改称されました。 昭和39年 松原小学校閉校後、新たに校舎を新築して文京小学校が創立されました。昭和54年に児童数の急増に伴い、文京小学校学区の一部を分離し現在の松原小学校が新たに開校されました。玄関前の『イロハカエデ』は、開校以来松原小学校のシンボルツリーとして校歌にも歌われております。